日本のIRはシンガポールから学べ

ざっくり言うと

  • IR実現に向けて、日本が学ぶべきはシンガポール40年の歴史。
  • 厳しすぎる制約は、日本のIRをダメにする。
  • 今、日本に求められているのは、決死の覚悟と大胆に進む行動力。

今回は、シンガポールにおけるIR(Integrated Resort)実現の道のりを振り替えることで、今、日本に何が求められているのかを考えてみます。

IRの成功事例とされるシンガポールですが、一説には、その原型が石原慎太郎都知事時代の「お台場カジノ構想」だと言われています。シンガポールは、議論ばかりで一向に進まない日本を尻目に、早々にIRを実現し、2017年度のIRの売上は5,383億円(EBITDA2,851億円)と、マカオ、ラスベガスに続く世界第3位の規模にまで成長しています。

たらればになりますが、石原都知事時代にIR実施法が可決していたら、情勢は大きく変わっていたと思います。シンガポールも日本のIR実現をもっとも競合視していたらしく、とにかく日本よりも先にということで実現を急いだそうです。


優等生国家といわれるシンガポールですが、1965年のカジノ合法化検討からはじまり、2004年の第5回目カジノ合法化検討を経て、2005年にリー・シェンロン3代目首相によってIRへの参入が閣議決定されています。カジノ合法化検討に40年を費やしていることからも、その決定がいかに難航したのかがわかります。

シンガポールがIR実現に向けて舵を切ったのは、2005年のシンガポール建国の父とされるリー・クアンユー初代首相の声明だと言われています。

リー・クアンユー初代首相は、長年にわたりカジノに反対してきましたが、「私は今でもギャンブルは嫌いだが、カジノを理由にIRを拒絶することがよいのかどうかに関しては、次世代のシンガポールを担ってゆく今の若者たちに判断を委ねるべきだ」との声明を発表し、これを受けてリー・シェンロン3代目首相がカジノ合法化方針を正式に閣議決定しました。



『私たちが検討すべき問題は、シンガポールがこの新しい世界の一員となるか、無視され、取り残されるかということだ』

こちらは、IRに関する名演説とされる2005年のリー・シェンロン首相の国会演説です。
シンガポールの決死の覚悟が伝わってきます。

アジアの観光産業は急成長し、特に中国、インドへの観光客数は激増している。我々シンガポールを訪れる観光客ももちろん増えているが、実はそこには既に危険信号が灯っている。我々の市場シェアは減退しているのだ。観光客はシンガポールで長期滞在をしなくなってきている。1991年には平均4日間の滞在であったものが、現在は3日間ほどになっている。対して香港には4日間、ロンドンには5日間、ニューヨークに至ってはおおよそ1週間も人々は滞在する。我々は観光地としての魅力を失いつつあるのだ。

それは何故なのか?観光客からのフィードバックを見てみると、シンガポールが面白みのない街として捉えられ始めていることが判ってきた。我々は人々の関心を広く集めるような観光資源に対して積極的に投資を行ってこなかった。観光客の関心を引くことのできるものが、あまりにも少なすぎた。香港や台湾メディアは我々を嘲笑的にこう評している「水清ければ魚棲まず」と。

2005年4月18日、リー・シェンロン首相の国会演説より
出典:「夜遊び」の経済学,木曽崇(著),光文社新書

<参考資料:首相官邸ホームページ>
公共政策としてのIRについて

シンガポールは、決死の覚悟でIR導入を意思決定し、その後、猛スピードでIRを具現化した訳ですが、日本の現状は、IR実施法こそ可決されたものの、なかなか具体的なイメージが見えてこないのが実情です。

このことに関して、IR議連副会長の柿沢未途衆議院議員は、「The JAPANESE INTEGRATED RESORT Vol.2」でのインタビューの中で、議会での承認、事業者への高い税金、日本人への入場規制などを課しているうちに、できあがったのは想像よりもはるかに貧弱なIRだったというのでは困ってしまうと、厳しすぎるIRへの制約に懸念を示されていました。


慎重さが日本の美徳であることは重々承知の上で、慎重すぎて前に進めなくなってしまっては、まったく意味がありません。フェイスブック創業者のマーク・ザッカーバーグ氏は、新サービスのリリースの際、検証やテストに時間を費やすぐらいなら、ある程度できた段階でまずはリリースして、そこからブラッシュアップを進めていかなければチャンスを失うと、ビジネス成功の秘訣を語っています。

IRの実現がそれほど簡単なことだとは思っていませんが、少なからず、今の日本に求められているのは、シンガポールのような決死の覚悟と、大胆に進む行動力ではないでしょうか。
既に賽は投げられているのだから。